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1920年10月17日、インドの西ベンガル州にあるミドナプールにて、孤児院を運営していたキリスト教の伝道師ジョセフ・A・L・シングは、宣教中に偶然立ち寄ったゴダムリという小さな村で、オオカミと共に暮らしている二人の少女を発見・保護する。シング牧師は少女たちを自らの孤児院へと連れ帰り、年少の子を「アマラ」、年長の子を「カマラ」と名付けて養育することにした。今回は、そんな「オオカミ少女」とも呼ばれる、二人の少女「アマラとカマラ」の真相に迫る。
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アマラとカマラの発見・保護

1920年頃、インドの西ベンガル州にあるミドナプールにて、孤児院を運営していたキリスト教の伝道師ジョセフ・A・L・シングは、インド国内の様々な場所を宣教の旅に出ていた。

その旅の途中、シング牧師はミドナプールとモーバニの境にある、ゴダムリという小さな村に偶然立ち寄った際、村人の男性から「この村の近くにある森の中には、恐ろしい化け物が住んでいる」という相談を受け、その化け物を退治することにする。

1920年10月17日、シング牧師は村人の男性たちを数人連れ、化け物が住んでいるという森へと向かった。その森の中には大きなシロアリ塚があり、村人たちが恐れている化け物は、そのシロアリ塚の近くにある洞窟に潜んでいるのだという。その化け物は夕暮れ時に行動を開始すると言われており、シング牧師と村人の男性たちは洞窟が見える場所で見張りを行い、日が沈むのを静かに待った。

次第に辺りが暗くなった頃、その洞窟から何匹かの大きなオオカミたちが現れ、その後を追うように二体の奇妙な生物が姿を現した。シング牧師は「村人たちが恐れている化け物というのは、恐らくこの二体の生物のことなのだろう」と考え、そのまま様子を伺っていた。その二体の生物は四足歩行で歩き、暗闇の中でも眼は不気味な青色に光っていた。しかし、よく見るとその姿は幼い少女の身体そのものだったのだ。シング牧師は洞窟付近にいた何匹かのオオカミたちを追い払い、その二人の少女を保護した。

その少女たちは泥や砂にまみれ、身体は痩せ細り、オオカミのものと思われる獣のような臭いが身体に染み付いていた。正確な年齢は不明だが、年少の子は推定1歳半ぐらい、年長の子は推定8歳ぐらいに思われた。少女たちの振る舞いはオオカミと全く同じであり、常に四足歩行で歩き回り、食べ物は生肉と牛乳を好んで食べた。また聴覚と嗅覚は鋭く、約50mから約80mほど離れた場所の音や匂いを察知することができた。その眼は日中よりも、日が沈んだ後の方が物がよく見えているようであり、暗闇の中では眼が不気味な青色に光っていた。真夜中に遠吠えをする以外では、少女たちが声を発することはあまりなかったという。

1920年11月4日、シング牧師は少女たちを自らの孤児院へと連れ帰り、年少の子を「アマラ」、年長の子を「カマラ」と名付けて養育することにした。アマラとは、サンスクリット語で「ユカンの花」を意味しており、カマラとは、サンスクリット語で「ハスの花」を意味している。

アマラとカマラの生涯

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1921年9月の始め頃、アマラとカマラは次第に体調が悪くなり、数日間ほど昏睡状態に陥った。シング牧師が医者に診せたところ、アマラとカマラの体内から大量の寄生虫が見つかり、全て除去された。その後、カマラの体調は回復したものの、アマラは同年の1920年9月21日に腎臓病のため死去した。

この時、カマラはアマラの死について理解すると両目から涙を流し、アマラのもとをしばらく離れようとはしなかった。アマラが死去した後、約一週間ほどはカマラは一人で部屋の隅にうずくまっていた。その後、シング夫人の世話の甲斐があってか、カマラは次第に元気を取り戻していったという。

1923年6月10日、カマラは初めて二足で立つことに成功し、少しずつ言葉を喋れるようになっていった。1926年には約30語ほどの単語を覚え、1927年には簡単な文章を口にすることができるようになった。

しかし、1928年の始め頃からカマラの体調が次第に悪くなり、1929年9月26日には尿毒症を発症し、同年の1929年11月14日に死去した。

その真相とは?

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この「アマラとカマラ」の話については、シング牧師が当時の日記を出版したことにより、世界中で「オオカミ少女」として多くの人々の注目を集め、児童心理学・教育心理学などの分野では、一時期、重要な文献として扱われることになった。また日本国内においては、一部の教科書などでこの話が紹介されていたという。

しかし、現在ではアマラとカマラがオオカミによって育てられ、オオカミと共に暮らしていたことについては、あくまでシング牧師による創作・捏造されたものであり、決してアマラとカマラは野生児などではなく、恐らく自閉症、あるいは何らかの先天的な障害を持つ、ただの孤児だと考えられている。

その理由としては、多くの研究者・科学者によって下記のことが指摘・判明しているためである。
  • 実際にアマラとカマラを目撃したと証言する人物は何人か存在したが、少女たちが四足歩行で歩いていたり、生肉を食べているところを目撃したという人物は、一人も存在しなかった
  • シング牧師は「1920年10月17日にシロアリ塚の近くにある洞窟で、アマラとカマラを発見・保護した」と述べているが、1921年10月24日付けの地元紙では、「原住民によってアマラとカマラは森で発見・保護され、その後、シング牧師が運営する孤児院へと引き渡された」という矛盾した記録が残されている
  • シング牧師が偶然立ち寄ったとされる、「ゴダムリ」という小さな村については、地図上には一切載っておらず、インド国内の公的な記録にも情報が全く残っていないため、現在までにその村の発見には至っていない
  • 生物学・人類学的には、アマラとカマラの前歯が環境に応じて急速に鋭利な形へと変形したり、関節が固定されて直立二足歩行よりも四足歩行の方が速く走れるようになったり、暗闇の中で眼が獣のように青色の光を放ったりするということは考え難い
  • オオカミの雌は授乳をすることが少なく、またその母乳の成分が人間のものとは全く異なっており、タンパク質と脂肪が人間のものより数倍も多く含まれているため、幼い乳児がオオカミの母乳を正常に消化できるとは考え難い
  • オオカミは狩りを行う際、群れを作って広範囲を移動するが、その時の速度は時速50kmにも達するため、当時推定1歳半のアマラと推定8歳のカマラが、オオカミの群れと移動を共にすることは考え難い
  • そもそも、シング牧師による日記はカマラが死去してから6年後の1935年に書かれた可能性が高く、現在では、アマラとカマラを写したものとして広く知られている22枚の写真についても、アマラとカマラが死去した後の1937年に全く別の少女を被写体として撮影された可能性が高いものと考えられている
またシング牧師が、アマラとカマラの話を創作・捏造した理由としては、孤児院の維持費を捻出するためだったと言われているものの、現在ではこの話の関係者が全員亡くなっているため、その真相は不明となっている。

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管理人から一言

カステラは、たまに食べるから美味しいのです…。