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1941年3月28日、イギリスのイングランド中部を流れるウーズ川にて、一人の女性が入水自殺した。その女性の名は「ヴァージニア・ウルフ」という。彼女はイギリスを代表する女性作家の一人であり、長年の間、重度の神経衰弱に苦しめられていた。その遺体は同年の4月18日まで発見されることはなかったが、彼女の書斎には夫のレナード・ウルフへと宛てた遺書が残されていた。後にレナードがその遺書を世間に公表すると、イギリス国内の市民は悲しみに暮れるとともに、その美しい文章には世界各国から彼女の死を惜しむ声が数多く寄せられることとなった。今回は、そんな「世界でもっとも美しい遺書」として紹介されることもある、このヴァージニア・ウルフの遺書を紹介する。
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ヴァージニア・ウルフの生涯

1882年1月25日、ヴァージニア・ウルフはイギリスの首都ロンドンにて、父のレズリー・スティーヴンと母のジュリア・プリンセップ・スティーヴンの間にアデリーン・ヴァージニア・スティーヴンとして生まれた。父のレズリーは著名な文学史家であり、母のジュリアはとても美しく、多くの芸術作品のモデルを務めるほどの美貌を持っていた。

ウルフの両親はともに再婚者であり、父のレズリーには前妻との間にローラという子供がおり、母のジュリアには前夫との間にジョージ、ステラ、ジェラルドという三人の子供がいた。また父のレズリーと母のジュリアの間にはウルフ以外にも、ヴァネッサ、トビー、エイドリアンの三人の子供がおり、スティーヴン家はちょっとした大家族だった。

父のレズリーが著作家であり、また一家には客人としてイギリス国内の数多くの著名な作家が訪問してくるということもあり、ウルフは幼い頃からヴィクトリア朝文学の影響を強く受けて育った。またスティーヴン家の書斎には膨大な量の書物があり、彼女はそれらの書物から古典文学について多くのことを学んだという。

1895年、ウルフが13歳の時に母のジュリアが48歳という若さで急死し、その二年後の1897年に義姉のステラが亡くなったことにより、彼女は神経衰弱を発症した。そんな状態の中、1897年から1901年にかけて、ウルフは首都ロンドンにあるキングス・カレッジ・ロンドンにてギリシャ語・ラテン語・ドイツ語を学び、いくつかの科目においては学位レベルまで修めている。

1904年、父のレズリーが72歳で死去した際、ウルフは深刻な虚脱状態に陥り、一時的に入院治療を行った。その後もウルフは周期的に繰り返す神経衰弱とうつ状態に苦しめられることになり、彼女の社交生活には少なからず影響を及ぼすこととなった。

この頃、実姉のヴァネッサと実弟のエイドリアンは首都ロンドンのハイド・パーク・コーナーにある家を売却し、ブルームズベリーのゴードンスクエアに新しく家を購入した。ここでウルフは「ブルームズベリー・グループ」と呼ばれる、イギリス国内の著名な芸術家による集まりのメンバーと交流することになった。

1912年、ウルフはブルームズベリー・グループのメンバーの一人であり、作家のレナード・ウルフという男性と結婚した。二人は決して裕福ではなかったが、ともに強い絆で結ばれており、「ホガース・プレス」という小さな出版社を経営して生活をしていた。

1915年、ウルフは儀兄のジェラルドが経営する出版社から、処女作の「船出」という小説を発表した。その後、彼女は数多くの小説や評論を、自らが経営するホガース・プレスから精力的に発表し続け、イギリス国内の市民や批評家から高い評価を受けることになった。

ヴァージニア・ウルフの死と遺書

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1941年に発表されることになる「幕間」の原稿を完成させた後、ウルフは深刻な躁うつ病の状態へと陥った。そして、第二次世界大戦によって自宅が破壊されたことや、友人の画家であるロジャー・フライの伝記の評判があまり良くなかったことなどにより、その症状が深刻なものとなり、彼女は文筆活動を続けることができなくなっていった。

1941年3月28日、ウルフはコートを着込み、そのポケットに小さな石を詰め込んで自宅の近くを流れるウーズ川にて入水自殺した。彼女の遺体が発見されたのは、同年の4月18日のことである。その後、夫のレナードは彼女を火葬し、その遺骨を自宅の庭にある楡の木の下に埋葬したという。

この時、ウルフの書斎には、夫のレナードへと宛てた遺書が残されていた。その遺書の内容とは、下記の通りである。

最愛のあなた

また自分の頭がおかしくなっていくのがわかります。私たちはあのひどい時期を、もう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今度は治りそうにもありません。声が聞こえるようになって集中できないのです。だから、私は最善と思うことをします。

あなたは私をこれ以上ないほど幸せにしてくれました。あなたは誰にも代えがたい人でした。二人の人間が私たちほど幸せになれることはないでしょう。この恐ろしい病気が始まるまでは。

もう戦うことができません。私はあなたの人生を犠牲にしています。私がいなければ、あなたは自分の仕事ができるのですから。あなたはできるはずです。もうこの文章さえきちんと書けません。まともに読むこともできない。

言っておきたいのは、私の人生の幸せは全てあなたのおかげだったということです。あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくして下さいました。他の人たちもわかっています。もし誰かが私を救ったとしたなら、それはあなたでした。

私にはもう何も残っていませんが、あなたの優しさだけは今も確信しています。これ以上、あなたの人生を無駄にするわけにはいかないのです。今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません。

V(レナードに宛てた書き置き)

後にレナードがその遺書を世間に公表すると、イギリス国内の市民は悲しみに暮れるとともに、その美しい文章には世界各国からウルフの死を惜しむ声が数多く寄せられることとなった。彼女が幼い頃に神経衰弱を発症した原因としては、彼女が近親から性的虐待を受けていた影響が大きいという見方もあるが、はっきりとしたことはわかっていない。

全体を通して、ウルフの小説には「意識の流れ」と呼ばれる、文学上の手法が多く用いられており、これは「登場人物の主観的な思考や感覚の流れを、注釈をつけずに記述していく」というものである。その中でも、彼女が1925年に発表した長編小説「ダロウェイ夫人」は、現在ではモダニズム文学の代表作の一つとして挙げられることが多い。

また2002年10月27日に公開された、スティーブン・ダルドリー監督によるアメリカ合衆国の映画「めぐりあう時間たち」は、このダロウェイ夫人をモチーフとしてヴァージニア・ウルフを中心に三人の女性の生き方を描いた作品となっており、この映画は第75回アカデミー賞にて9部門にノミネートされている。

この機会に興味のある方は、ヴァージニア・ウルフの書籍を手に取ってみてはいかがだろうか。

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管理人から一言

「ウルフ」の綴りは「Wolf」ではなく、「Woolf」なのでご注意を…。