201604090101

「ツタンカーメンの呪い」とは、1922年11月4日にイギリス人の考古学者ハワード・カーター率いる調査隊が、エジプトにある王家の谷にて古代エジプトにおける第18王朝のファラオである、ツタンカーメンの墓を発見したことに端を発するとされる呪いのことである。ツタンカーメンの墓が発見されてから約5ヶ月後の1923年4月5日、カーターに資金提供を行っていたカーナヴォン卿が急死したことを皮切りとして、この呪いにより、1930年までにツタンカーメンの墓の発掘作業に携わった調査隊のメンバーのうち、合計で20人以上もの人々が亡くなったものとされている。この呪いは、別名「ファラオの呪い」とも呼ばれている。
スポンサーリンク

ツタンカーメンの墓の発見

1907年頃、古代エジプトの歴史に強い関心を抱いていたイギリス人の資産家ジョージ・ハーバート(敬称:カーナヴォン卿)は、知人の紹介により、イギリス人の考古学者ハワード・カーターと知り合う。カーナヴォン卿は古代エジプトの王が残したとされる莫大な財宝を発見することを夢見ており、そのためにパートナーとなる専門家を探していたのだ。

このハワード・カーターという人物は高等教育を受けてはいなかったものの、考古学における高い知識と技術を持っていたため、カーナヴォン卿がカーターのスポンサーとなって資金提供を行い、カーターが古代エジプトにおける王の墓の発掘作業を行うということで二人は合意した。その後、1915年からカーター率いる調査隊は、エジプトの王家の谷にて発掘作業を開始している。この「王家の谷」とは、ルクソールのナイル川西岸にある、古代エジプトの王の墓が密集している地域のことである。

1922年11月4日、カーナヴォン卿の財産が底をつき始め、資金提供が途絶えそうになっていた時、ハワード・カーター率いる調査隊は、古代エジプトにおける第18王朝のファラオである、ツタンカーメンの墓を発見した。このツタンカーメンの墓は、珍しいことに約3000年間もの長い年月の間に大きな盗掘の被害には遭っておらず、ツタンカーメンのミイラに被せられていた黄金のマスクをはじめ、その莫大な財宝と数多くの副葬品がほぼ完全な形で出土している。

この一大ニュースは、「世紀の発見」として世界中の国々を駆け巡り、それまで謎に包まれていたツタンカーメンの存在が多くの人々に知れ渡ることになった。

カーナヴォン卿の死とツタンカーメンの呪い

201604090102

ツタンカーメンの墓が発見されてから約5ヶ月後の1923年4月5日、エジプトの首都カイロにあるコンティネンタル・サヴォイ・ホテルの一室にて、カーナヴォン卿が死亡しているのが発見された。このカーナヴォン卿の死については、世界各国の大手新聞を中心として大きく報道されることになり、その中には「自らの墓を荒らされたツタンカーメンの呪いにより、カーナヴォン卿が死んだのではないか」というセンセーショナルな記事が多く掲載されていた。

そのような記事によれば、ツタンカーメンの墓の入り口には「この墓に足を踏み入れた者には、死が鳥にように襲いかかるだろう」という不吉な言葉が書かれていたのだという。その他にも、「ツタンカーメンの墓が発見された日の朝、ハワード・カーターが飼っていたカナリアが野生のコブラに飲み込まれた」、「カーナヴォン卿が死亡した時刻と同じ時刻に、カーナヴォン卿の自宅で飼われていた犬が遠吠えをしてから息絶えた」、「カーナヴォン卿が死亡した日、エジプトの首都カイロでは大規模な停電が起きていた」などの様々な情報が飛び交っていた。

その後、ツタンカーメンの墓の発掘作業に携わった調査隊のメンバーが死亡したという報道が立て続けに行われており、1930年の時点で合計で20人以上もの関係者が次々と亡くなったものとされている。当時、ツタンカーメンの墓の発掘作業や、その財宝と副葬品の取り引きなどに携わった者は震え上がっていたという。

その真相とは?

201604090103

まず、1923年4月5日にカーナヴォン卿が死亡したこと自体は事実だが、カーナヴォン卿は決して急死したわけではなく、その死因は発掘現場で蚊に刺された傷口から伝染病に感染したことにより、肺炎と敗血症を引き起こしたことにあると考えられている。もともと、カーナヴォン卿は1901年にドイツにて自動車を運転中に大きな事故を起こし、複数回にわたって手術を受けた後では決して健康的と言えるような状態ではなく、1923年2月にはエジプトの都市アスワンにて数日間の静養を取っていたことが判明している。

次にツタンカーメンの墓の入り口に書かれていたとされる、「この墓に足を踏み入れた者には、死が鳥にように襲いかかるだろう」という言葉などは実際には確認されておらず、ハワード・カーターが飼っていたカナリアが野生のコブラに飲み込まれたというのは、ツタンカーメンの墓が発見された日の朝ではなく、実際には1922年12月頃に起きたことである。またカーナヴォン卿の飼い犬が不可解な死に方をしたというのは事実ではなく、カーナヴォン卿が死亡した日にエジプトの首都カイロでは大規模な停電が起きていたというのは、当時の首都カイロの電力の供給が不安定な状態であり、日常的に停電が起きていたことが判明しているため、ただの偶然だと考えられる。

また1930年の時点で合計で20人以上もの関係者が亡くなっているということも事実とは異なっている。1934年にメトロポリタン美術館の館長ハーバート・ウィンロックが公表した調査結果によれば、王の棺を開封した時に立ち会っていた22人のうち、10年以内に死亡した者は2人であり、ツタンカーメンのミイラの包帯を剥がす時に立ち会っていた10人のうち、10年以内に死亡した者は0人だったという。また2人の死亡者については、ともに年齢が高く、長年の間、重い病気を患っていたことが判明している。しかし、当時は調査隊のメンバーと同姓同名の人物や、全く関係のない人々に関するエジプト国内で発生した事件などについて、この「ツタンカーメンの呪い」と関連付けて偏った報道が行われていたことが明らかとなっている。

その理由としては、カーナヴォン卿がイギリスの大手新聞社である、ロンドン・タイムズ紙とツタンカーメンの墓の情報に関する独占契約を結んでおり、その他の新聞社には情報を一切公開していなかったため、世界各国の多くの新聞社に良く思われていなかったことが一番の要因だと考えられている。また当時の人々はエジプトに関する知識が乏しく、その情報の真偽を確かめる術を持っていなかったため、多くの誤った情報が世界中の国々へと広まってしまった可能性が高い。

この調査隊を率いていたハワード・カーター本人は、ツタンカーメンの墓が発見されてから約17年後の1939年3月2日に64歳で死去している。その死因は悪性リンパ腫によるものだとされているが、当時のイギリス人の平均寿命が50歳に満たなかったことを考えると、やはり、ツタンカーメンの呪いなどは存在していなかったものと考えた方が妥当なのではないだろうか。

関連動画



管理人から一言

ツタンカーメンより、トンコツラーメンの方が好きです…。